Neco の 陽なたぼっこ

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2007年 02月 13日

「〜ヒロシマのデザインを問う〜」

2007年2月2日。「〜ヒロシマのデザインを問う〜」というタイトルのシンポジウムがありました。
パネラーの皆さんは、基調講演のデザイン総研広島の代表山田晃三さん、コディネーター役の錦織亮雄さんを始めとし、広島でグラフィックデザインに関わっておられる縄田健次さん、教育の立場からの意見として広島工業大学 平田圭子さん、マツダデザイン室 林浩一さんでした。
広島住人であり、デザインのプロとしての意見。とても考えさせられる内容でしたので、心に残った事を、覚えている範囲内にてここにご紹介します。
残ったものと言う事は、若干、自分の意見をも入ったものになっているかもしれませんが…。
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安倍晋三氏は「美しい日本をつくりたい」と言っている。元来日本は美しい国であった筈である。そもそも、わざわざ美しいと言わなければいけない程、今の日本は美しい所から遠ざかっているのではないだろうか。

歴史的には、半世紀前、廃墟の中でアメリカ文明に出会い、憎き米国がいつの間にかあこがれの国となった。
米国を追うように高度成長期に突入し、工業国から電子立国へ、そして世界に名だたる経済大国になっていった。
今21世紀になり、忙しさは増してきたが、その中で、「豊かさ」は実感できないのである。
そして、今中国に追われ、一体我々はどこに向かおうとしているのだろう。

20世紀の最大の発明は、「核兵器と自動車」である。このふたつを「極限の道具」とここに仮定しよう。
「2001年宇宙の旅」という映画が好きでよく見ているのだが、その中では、500万年前、猿が手に棒を持ったときから人類の戦いの歴史が始まった。
棒と器の時代からコンピューターの今日まで、道具の進化の歴史は、人類の進化と同義である。
いつの間にか、地球上の優勢種として君臨しているが、今、我々は、道具の「副作用」についても、気づき始めている。

沢山の道具、その道具の製造過程、使用過程、使用後に至るまで、その道具達は、地球環境に大きな悪影響を及ぼしてきた。
そして、同様に、我々ヒトの心身にも、「内なる環境破壊」が進行している事に気がついていないのである。

身体の中にあったはずの自然が、実はどんどん破壊されようとしているのだ。
それは感性の欠落という形で…。
道具に見張られ、道具に使わされる時代になってしまった気がする。このままでいけば、人が人でなくなる瞬間がくるのではないだろうか。

「美しいもの」は美学であり、「美しい言葉」と、「美しい味」は共有されるものなのである。

本来、本当の「美しさ」はとても重要なものであり、そう簡単には手に届かないものである。
とても、危険であり、下手をすると怪我をしてしまいかねない。
そう、自分を鍛えないと届かないものなのである。
我慢して、鍛えて始めて手にする事ができるものであるのにも関わらず、我々は楽にデザインをしてしまったのではないだろうか。

我々は、普段いつも目にするものは案外目に入らないものである。
醜い、邪魔なデザインの前では自然に足速になり、そのものを見ないように遠ざけて生活している。
昔は看板ひとつにも、プロの手を得ないとできなかったものが、今は素人でも簡単にコンピューターでできる時代になった。
その安易さが、ちまたのデザインの煩雑さを加速してしまっている。

この広島は、外国人から見ると、瀬戸内海に面し、大きな川と海のとても景観のきれいな街としてあげられている。
でも、本来の都市美を思った時、「自然の美しさ」や「景観の美しさ」もさる事ながら、本当は、「そこに住んでいる人の心の美しさ」を感じさせるものなのではないだろうか。

我々ひとりひとり住んでいるものが、ゆっくりと歩きたくなるような街づくり、目を止めて見たくなるようなデザインで溢れた街になると人の時間の流れも変わってくる筈である。
汚い、嫌なものを容認してしまうのではなく、「断る勇気」も必要なのである。

ここ広島は、原爆が落ちた地として世界でも有名である。
今まで、核兵器イクオール巨大さだと思っていたのだが、実は、遺伝子を破壊するというとんでもない怖さを持ったものである事を知った。

つまり、ここ広島は人間のみならず、地球が誕生して38億年前からずっと繋がってきたものをも、一瞬の内に寸断してしまった地なのである。
DNA 自体が断たれてしまったのだ。

じゃあ、これから、どう修正していけばいいのだろう。
広島という地の役割は…。その広島でのデザインとは…。と問った時に、
「いのち」とは…? と問う事ではないのだろうか。

アイデンティティという事は、自己同一性という事であるが、つまり、「あなたらしさ」という意味ではないかと思う。

かけがえのない自分。「よく、ここまでいのちを繋いで生きてきましたね。」
その生きてきた自分に喜びを感じる生き方をする事ではないだろうか?

そのかけがえのなさ。は、人間のみならず、植物にも、動物にも、微生物にも…全ての存在に対してのかけがえのないという事なんだよ。と伝えないといけないと思う。

広島からそれを伝えないといけないと思う。

まず、その最小単位は「家族」である。
子供たちに、今何をしているか伝える事。
生きるために今欠けている事を伝える事。

「家族」から始まり、「地域」になり「広島」そして、「かけがえのない国」になり、
「かけがえのない地球であり、宇宙」になるのである。
宗教ではないが、その神に導かれるという宗教的感覚が必要なのだと思う。

もう、そろそろ、
まるで遊んでいるかのように仕事をし…。
まるで、仕事をしているかのように、遊んでもいいのではないだろうか?

芸術は、非日常である。日常生活の中の美しさの確立はとても難しい。

デザインをよくしていくという事は…
人が人としての誇りを持つ事。緊張感を持って….。
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by necocafe | 2007-02-13 09:50 | Neco茶屋


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