Neco の 陽なたぼっこ

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2007年 07月 31日

フランス・オーヴェルニュへの旅 (新しい出発)  その6

10月11日

今回の旅行は、今までのどの旅行よりもまるで違ったものである事を ふたりとも、
何となく感じていた。
あまりにも偶然の多すぎる事に…。
そして、ふたりの中にあった固いしこりのようなものがいつの間にか、溶けてきて
いる事に気づいた。

我々は、思い出のカルカッソンヌを後にし、スペインとの国境ペルピヌナンに向か
った。
駅の近くの当初予定していたレンタカーの窓口に行き、このままスペインのバル
セロナまで行って返すとどの位費用がかかるか聞いた。

カウンターの前に座った愛想の悪い女性は、とても嫌な顔をし、いろいろな所に
電話をし始めた。一体どの位たったのだろう、我々はしっかり待たされた後、この
ままスペインまで乗り入れると約3万円ぐらいアップすると伝えた。

想像以上の値段に、我々は結局汽車で行く事にした。
汽車の時間までは、約2時間あまりある。
レンタカーの返却は夕方までに返せばいい。

我々は、車で30分もあれば行けそうな、港町コリオールに行く事にした。
シーズンオフの為か、殆ど人影はなく、お店も閑散としていた。
確かに、美しい港町のひとつなのかもしれないが、今まで美しい風景をしっかり
堪能してしまった我々にとっては、活気のないこの町は味気ないものだった。
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汽車での国境越えは久しぶりである。
暫くすると、フランスとスペインの国境の町ポルトボーに汽車は着いた。
昔、25年近くも前になるだろうか? この町を通った時は、みんな降ろされて税関を
通ったものだが、今回は汽車内でのチェックのみである。
(今はそれもないのだろう)ただ、レールの巾が違う為、車両編成の為か、約40分
ぐらい待たされた。
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汽車の窓から、ぼんやり地中海を眺める。いかにも地中海らしく銀色に光ったオリー
ブの木があちらこちらに見える。空気も景色も建物のデザインも数時間前とはまるで
様子が違う。いかにもリゾート地のような装いである。

普通列車で5時間弱、夕方6時頃やっと、バルセロナに着いた。
大都会に来たんだな〜と、妙な気持ちになった。
駅の周辺の建物にはいかにもスペインらしい落書きが目立つ。
その落書きや煩雑さがいかにもスペインを感じさせる。
さすがに、固い座席のせいか、腰が痛くなっている。

駅に着き、駅近くの安宿を見つけた。荷物を置いて、久しぶりのバルセロナの街を
探索した。
1985年の頃、1ヶ月ちょっとユーレルパスを買っていわゆるバックパッカー的旅行
をした事がある。
その時以来である。当時はこの街角には怪しげな娼婦達が立ち並び、危険な臭い
のする街だった。
私達は、その時、目の前でその娼婦たちの仕事ぶりを目撃した事があった。
まず、おもむろに通行人の男性にタバコの火をせがむ、そして、その間に別の手は○○○….。男性はふっと身を固くして、ふたりはそのまま後ろのホテルに…。
まあ、見事なものだった。
私達はその当時の出来事をネタに、笑いながら歩いた。

今や、その当時の面影はまるで感じられない程、町並みはきれいに整備され、安全
な街になっていた。
どんどん街がどこにでもある街に変わってきている気がした。私達は商店街の中にあ
る、カタルーニア音楽堂を訪ねた。
このカタルーニア音楽堂はガウディーと同じ時代に活躍したモンタネールの代表作で
1907年に建設されたものであり、世界遺産にも認定されているらしい。

沢山の人たちがこの音楽堂を目指して歩いて行く。
今日、何かあるのかな? チケット売り場で聞いてみると、7時からコンサートが始まる
という。15分後である。
慌てて当日券を買い、中に入った。
1Fの売店で慌ててサンドイッチをほおばり、2階の席まで上がっていった。
内装はカラフルなタイルに囲まれ、メインホールのステンドグラスは圧巻である。
過剰すぎる程ごてごてしたインテリアなのに、いつの間にか馴染んでしまから不思議
である。

辺りを見渡すと、リヨンでのオペラとは打って変わり、殆どの人たちが軽装である。
殆どが観光客なのだろか?
自分達の姿を思い、ホッとした。
一体、今日の出し物が何であるかも解らないまま私達は座った。
いきなり、馴染みのある曲が流れてくる。ショパンのピアノコンチェルトから始まり、
有名所のコンチェルトばかりの演奏会らしい。
途中休憩の時、いつもの様にトイレに駆け込んだ。

並んでいる先に、ふと日本人らしき婦人と目が合いお互い微笑んだ。
ひとりできちんと並んで待っておられる。  とても品のいい、素敵な方である。
身長は150cmちょっとであろうか、背筋をピンとはって堂々としておられる。
少し白髪がかった髪がとてもきれいだ。

思わず、私も習って姿勢を正した。外国で素敵な日本人に会うと嬉しくなる。
日本人(アジア人)はその方々と私達だけであった。
2部が始まった頃、近くの席がざわめいてきた。ふと見ると、老人男性が倒れている
ではないか..。暫くして、周りの人たちが慌ててその老人を抱えて出て行った。
どうもその場で亡くなられたようだ。

舞台の方では、チェロの演奏者がひとりチャイコフスキーのコンチェルトを何も無かっ
たかのように演奏していた。
周りの観客もまた、元の静けさに戻り、それぞれに演奏を聞き始めていた。
私も、始めは事の成り行きに、びっくりはしたものの、「待てよ。もしかしたら、この老人
はここに来るまで全く元気に来られたのよね。
もしかして大往生って、こういう事を言うんじゃあないのかしら?だって、好きな音楽を
聞きながらあの世に行けるんでしょ。
まあ、確かに廻りの家族は大変だけどね」そんな事を思っていた。

いつの間にか最後の演奏になっていたようだ。
いきなり静かな音が鳴り響いてきた。重く、それでいて、心にじーんと響き渡る旋律。
そう、「鳥の歌」である。相棒と私は、お互い顔を合わせて微笑んだ。
カタルーニア地方の民謡であり、パブロ・カザルスがスペイン内乱の時ホワイトハウス
で弾いた曲、カザルスが最も大切にしていた曲であった。
http://pippo-jp.com/peace/memo.html
そして、我々ふたりにとっても大切な歌だった。
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「今回、本当にいろんな事があったね。これだけいろいろあったら、最後に飛行機が落
ちたりしてね。」

その時、この言葉がまさか、本当になろうとは思ってもみなかったのだが…。
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by necocafe | 2007-07-31 19:45 | Neco茶屋
2007年 07月 30日

フランス・オーヴェルニュへの旅 (新しい出発)  その5

2000年10月10日

朝早く、荷物を抱えて、車の置いてある前の道路に出た。
一足先に出た相棒がオロオロした様子で帰ってきた。
「車がパンクしているよ〜!夜、誰かにいたずらされたかな?」

レンタカーの為、いつもと勝手が違う。
スペアタイヤを出して、スパナでタイヤを外し始めたが、なかなか動かない。

そんな時、4〜5名の団体らしき人達が玄関から出てきた。
年配の大きなおじさんが、「どうしたの?手伝ってあげるよ。」
と、大袈裟にジェステャー交えて、腕まくりをし、きっと得意だったのだろう、あっと
言う間にスペアタイヤに交換してくれた。

連れのおばさんを振り向くと、「彼はスーパーマンだから..」と笑って答えてくれた。
私達だったら、どれだけ時間がかかった事だろう。
何度も頭を下げてお礼を言った。
陽気なそのメンバーは、ワイワイガヤガヤ、笑いながら手を振って車に乗り込んで
去って行った。

レンタカーの旅でパンクをしたのは始めてである。
こんな事もあるんだと思った。

アルビの北西25km、なだらかな丘陵の尾根に沿って細長く密集する「天空の
城塞都市」・コルドの街。ガイドブックにもなかった城郭都市。
さりげなく、こんな素敵な場所がある。つくづくこの地方の奥の深さを感じてしまう。

この辺りの町は近くにあるにも関わらず町の色がそれぞれに違っている。
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石灰色の町、ピンク色の町、そして、いきなり今までとは打って変わった風景
赤レンガの町アルビに着いた。
基本的に、その土地から産出される土で作られているからだろうが、地層の
違いがこんなにもある事に驚かされる。
アルビは中世の町並みがそのまま残った美しい町で、ロートレックの故郷でもある。

旧市街を対岸から写真を撮りたかったらしく、相棒は川辺からファインダー越
しにアルビの街を眺めている。
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私は、川辺のベンチに腰をかけ、ボ〜と目を閉じていた。
すると、朝の光が頭の上から身体に入り込み優しい光で満たしてくれる、そん
な気がした。
半分、寝むっていたのかもしれない。
いきなり「そろそろ、もう行くよ!」相棒の声で正気に戻ったが、まだ身体が動
かない。
フラフラしたままで車に乗り込んだ。旧市街まで車を走らせ、赤レンガでできた
大聖堂の前に車を止めた。
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急にインスタントカメラが欲しくなり、聖堂前のお土産売り場に入った。
相棒は聖堂の周りを、いろいろな角度で写真を撮りながら歩いている。

私は、一足先に大聖堂の中に入った。
脇にある大きな重い木製のドアを開けると「バ〜ン♪」と大きなパイプオルガンの
音が聖堂内に響き渡った。

丁度、パイプオルガンの演奏会が始まったばかりのようだ。
この演奏を聞くために集まったのだろうか、すでに沢山の人たちが座っていた。
丁度目の前方上に大きなパイプオルガンが備えつけられ、演奏者の姿も見える。
私は、真ん中の空いている席に座った。
いつの間に来たのか、相棒も聖堂に入り、私の側に来て座った。

内部は、漆喰の壁一面に様々な宗教画が描かれている。
暫くキョロキョロと様子を伺っていたが、その内、目を閉じて、パイプオルガンの
音に耳を傾けていた。
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どの位の時間が経ったのだろうか、いきなり、
「広島にいる。その事に意味がある」
ポ〜ンと言葉ではない、何か解らないインスピレーションのようなものが聞こえた、
というより、感じた。

「え〜? 何?」辺りを見渡した。
何もない。一体今の感覚は何だったんだろう?
不思議な気がした。それと同時に、何か確信のようなものが沸き上がってきた。
「そうか〜?そうだったんだ〜!」

それまで、私は広島を意識した事がなかった。広島=平和なんて、殆ど自分とは
全く関係ない事だと思っていた。
様々な人たちが広島を訪れ、いろいろなイベントが行われるが、
「あ〜また何かやっているんだな?」そんな程度で接していた。
外国かぶれだった私は、日本人としての自分はいても、広島人としての自分を思
った事もなかった。
ただ、外国に出ると、「どこから来たの?」と聞かれ、
「日本よ」と答えると「じゃあ、日本の何処?」「広島」
「そうか〜?広島か〜?」いきなりトーンダウンした声が決まって返ってくる。
どんな所に行ってもみんなが広島を知っている事に驚かされていた。
でも、私の中に広島はなかった。

リヨン出発し、オーヴェルニュの田舎道を走っている間、ず〜と車の中で考えて
いた。
「どうして、今、自分は日本人として生まれたんだろう?」
「どうしてこんな場所に住めないんだろう?」
日本に帰りたくなかった。いつまでもこうしていたかった。

「そうか〜?そうだったんだ〜!」パイプオルガンの音を聞きながら、何だかわなら
ないまま、涙が溢れてきた。

演奏会が終わった。  1時間もここに座っていた事に気がついた。
溢れる涙を拭い、他の観客と一緒に外に出た。
一足先に出て行った相棒の姿が見えた。 
何気なく、出て来た場所を振り返った。すると、大きな白い垂幕が目に入った。
「今年はイエスキリスト生誕2000年です。彼はあなたが行く所を導いています」
そんな内容だった。

「え〜?何?」その言葉がまるで自分への事のように胸に響いていた。
あれだけ大きな垂幕、入る時、当然気がついていい筈なのに、全然気がつかな
かった。
相棒を呼んで訪ねた。「あんな垂幕あった?」
「え〜?知らない。気がつかなかったな〜?」
先程買ったインスタントカメラでその垂幕を撮った。
日本に帰ってプリントアウトしたが、写っていなかった。

私達は、アルビを後に、中世の城郭都市であるカルカッソンヌまで車を走らせた。

トウールーズに着いた。思ったより大きな街である。
3つの大学を中心とした巨大学生都市だという。そういえば、学生時代の友達がこ
のトウールーズに留学していた事を思い出した。
その頃の私は、トウールーズという名も知らず、何て田舎の大学に行ったんだろうと
思ったもんだが..。
こんな街での学生生活はさぞかし楽しいんだろうな?と羨ましく思えた。

アルビで思ったより時間をとってしまった我々は、足早にトウールーズを過ぎ去り高速
に乗り、カルカッソンヌに着いた。
高速から巨大な城壁が見えた。まるで、ディズニー映画に出てくる代表的なお城みたい。
メルヘンの世界ような美しい城である。
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私達は、この城壁の外に宿を取る事にした。
このホテルからは、お城へのライトアップがきれいに見えるという。
1泊、1部屋6500円。でも、最上階だと500円安いらしい。
ちなみに、この宿屋にはエレベーターはない。私達は顔を見合わせ当然のように、
500円安い最上階に決め、狭い螺旋階段を重いトランクを抱えて最上階まで運んだ。
前日、あれだけ高級ホテルに泊まったというのに、今日は500円の為にこうして
汗だくだくで運んでいる。
何だか自分達のしている事が滑稽に思えた。
「やっぱり、私達には、こんな宿が身分相応だよね。」
荷物を置いて、城郭の中を探索に出掛けた。夕方だというのに、まだ明るい。
今晩の食事の場所を探しながら、歩き回った。

さすがに疲れた私は、ひとりカフェに残った。
段々薄暗くなったというのに、相棒はなかなか帰ってこないようだ。
迷子になるのも嫌なので、ここに腰を落ち着ける事にした。

瞑想なんてした事も、そんな言葉も当時は知らなかったが、目を閉じ、先程のア
ルビでの事を思っていた。
そして、訳の解らない事を言っていた。
「先程の事は何だったのですか? 私へのメッセージですか?
 私は馬鹿だから解りません。
でも、もし、本当にそうだったら、私に証拠を見せてください」

私は宗教心も何もなく、勿論、キリスト教でもないし、神様の存在も信じてはいな
かった。
でも、どうしても先程の事は自分の中でも半信半疑だったのだ。
納得がいかなかったのだ。
「きっと、これって思い違いよね。そんな馬鹿な事ないよね」

やっと相棒が帰ってきた頃、いつの間にか辺りは暗くなり、街路灯の明かりが見えて
いた。
先程見つけた、この辺りの郷土料理のお店で夕食をする事にした。
この辺りは豆料理で有名なのだが、元々豆があまり好きではない私の口には残念な
がらもう一度食べたいと思えるものではなかった。

さすがに長かった一日に疲れた我々は、早々にシャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。
「ねえ、10時からライトアップよ。その為にこの宿を取ったんでしょ。
どうするの?」
「う〜ん?もういい。寝る」
「あっそう〜!おやすみ」
そんな感じでふたりは横になったものの、いきなり目が覚めた。

時計を見ると9時30分である。少し休み、ちょっとだけ元気になったふたりは、ライ
トアップが気になってきた。
でも、10時まで起きて待てるとも思えない。
「まさか、まだライトアップされてないよね。見て来て!」
「嫌だよ。行っておいで..」「じゃあ、じゃんけん!」
まあ、いつもの事だが、お互いしたくない事は、じゃんけんで決着をつける。
相棒が負け、しぶしぶベランダまで出て行った。
ちなみに我々の泊まっていた部屋は屋根裏部屋だった為、屋根の上に洗濯物干場
として活用しているのだろうベランダまで行かなくてはいけなかった。

「すぐ来てごらん。早く!今電気がついたよ。」興奮した声で相棒が帰ってきた。
慌ててカメラと三脚を探している。
一緒に眠気眼でベランダに行くと、ちょうど目前の城壁はきれいにライトアップされ
ていた。
その城壁の真上にきれいな満月が見えるではないか。
曇っているのに、そこの満月の所だけが雲がない。
そして、その満月の周りには虹のように月倫がかかっていた。
まるで、この世のものとは思えない景色だった。
暫くボ〜と、ただただ、見ていた。

すると、ほろ酔い気分になった宿屋の主人がベランダに上がってきた。
「へ〜?今日はライトアップが早いね〜? 何てきれいなんだ。ミステリアスだ。
こんな景色見た事ないよ。君たちはラッキーだね〜!」
そういって又階段を降りて言った。
ふたりはため息をつきながら、その景色を見ていた。すると視界の右側から
視界一杯の左下まで、ビューンと大きな光が流れて行った。
見た事もないような長い流れ星。周りには雲がかかって星ひとつないというのに…。

あまりの出来事にふたりは口をあんぐり開けたままの状態。
「さっき、私、お願いしたんだけど…これってそれかな..?」
訳の解らない言葉を口走っていた。
「うん。 そうかもしれない…。」ボ〜としたまま相棒は答えた。
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思い出したように我に返った相棒は、
「今の写真に撮れているかな?シャッター切ったままだったから…。」
三脚の上で開きっぱなしだったカメラを指差した。
( でも、写真にはその光は撮れていなかった)

「そうだ。あの橋の所からは、もっときれいに見える筈だよ。行こう!」
慌てて片付け、急いで着替えして、外に出た。
ふと空を見ると、先程まできれいに見えた満月がいつの間にか雲の中に隠れて見え
なくなってしまっていた。
15分間の私達へのプレゼント..。そんな気がした。

2000年10月10日(満月)だった。 
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by necocafe | 2007-07-30 12:21 | Neco茶屋
2007年 07月 29日

フランス・オーヴェルニュへの旅 (新しい出発)  その4

10月9日
翌朝、私達は始めて部屋で朝食を取った。
バスケット籠にアラジンの魔法瓶とパンと果物。
窓際のカフェテーブルにテーブルクロスを敷き、別々の魔法瓶に入ったコーヒーと
紅茶がバスケット籠に並べられている。
昨夜のディナーに比べると随分質素ではあったが、まだお腹が一杯な我々にとって
はこの位が丁度いい量である。
目一杯のスケジュールをたてての旅行。早々にチェックアウトした。

友人から頼まれたミッシェルブラスのオリジナルカトラリーを買い、包装してもらった。
ところがあまりにも重い為に、送ってもらうようにお願いすると、なんとナイフの刃渡り
が長くて国外に持ち出す事は無理だという。
トランクに詰めて持って帰る事はできるという。
これからの旅を思い、友人には悪いが断念した。
素晴らしいデザインのカトラリーである。値段もなかなかなもので、一本が1万円近
くする代物である。まあ、我々には縁のない話しだけどね。

記念にお世話になった方に1本、そのラギョールでも一番有名なLの印のあるソムリ
エナイフを買った。
我々はその町の外れに、いきなりモダンな建物を見つけた。
デザインを見ただけで、その建物はフィリップ・スタルクの設計である事がわかる。
その建物は、先程のLの印のマークのナイフを作っている会社のものだった。
その町を通り抜けた途端、目の前に今までとは打って変わった田舎の田園風景が見
えてきた。

古い石造りの牛小屋が 当時のままの姿で佇んでいる。車を脇に置いて、写真を撮った。
数年後、フランスの写真集に同じアングルで撮った写真を見つけた。
ここまで完璧な状態でのアングルはそうそうあるものではない。
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私達はコンクに向かった。ここは巡礼地ではとても有名な場所のようだ。
ただ、ここまで来るのはなかなか容易ではない。コンクの近くの並木の道で、カナダ
の旗を掲げた自転車での巡礼者に出くわせた。
明るい声で挨拶し合う。山道を上がりきった所に石造りの小さな集落があった。
どうもここがコンクのようだ。
その集落の中心にロマネスク様式のサント・フォア聖堂があり、ここのタンパンは有
名である。
天国と地獄を表しているという。
確かにひとめ見ただけでも描かれている描写でその差が解る。世界遺産のプレート
があった。
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のんびりとした時間が流れてゆく。山の頂上にある巡礼地。どのアングルを撮っても
絵になる風景である。
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コンクからフィジャックを経て、N140、ロカマドールの道を走る。
ロカマドールに着いたのはまだ明るい3時を廻った頃だった。
段々今までの山道から開けた道になり、風景も変わってきた。
大きな駐車場には観光地らしく沢山の車が止っていた。
今まで殆ど観光客には出くわさなかったせいか、それとも先を急いでいたからなのか
解らないが、崖の上に建つ町並みをちょっと覗いただけで足早に過ぎ去った。
日差しが強く、私達は少し疲れてきていた。
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後で、この地を資料で調べ、もっとゆっくり見ればよかったと思ったのだが…。
その時はどうでもいい気がしたのだ。

その後に来る出来事を 予期していたのかもしれない。
少しでも早く次の場所へ移動したかったのだ。

地図では1〜2時間で簡単に着くと思った道が、思ったより時間がかかってしまい、
私達がカオールの町に着いた頃はもうしっかり暗くなった頃だった。
この時間からの宿屋探しは大変である。
ひっそりとした町の中で、唯一賑やかそうな「オーベルジュ」サインを見つけた。
宿屋だよね。急いで中に入るとどうも様子が違う。
レストランだけだと言う。 
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諦めて車を走らせる。旧市街を出た所で、快適そうなビジネスホテルを見つけ、
先程のレストランで夕食をとった。
ここカオールは赤ワインの有名な所で、深い赤のとてもしっかりとした味わいのする
ワインで乾杯した。

この日は、次の大切な日の為に、距離を走る旅だったのだと後で思った。
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by necocafe | 2007-07-29 11:49
2007年 07月 28日

フランス・オーヴェルニュへの旅 (新しい出発)  その3

2000年10月8日

朝、あれだけ探しても見つからなかったひげ剃りが出て来た。
何故見つからなかったんだろう?
かなり、生え揃ってきた髭を見て、
「まあ、いいんじゃない。そのまま延ばしたら?」
本人もまんざらでもないようだ。

いよいよ車での出陣である。
リヨンの街は比較的解りやすい。
いつも車での移動の初日は緊張する。左ハンドルに右側通行。
川沿いには朝市が出ていた。食の都、リヨンの朝市である。
これは見逃す訳にはいかないよね。 車を道路脇に置き、探索した。
今まで見た事もないような食材が並ぶ。野菜も新鮮そのものである。
他の都市の朝市よりも厳選された食材という気がした。

そこで、生ハムとワインとチーズと果物を買い、車に持ち込んだ。
ミッシュランの地図を片手に高速の看板を目指す。

ヨーロッパの道は、ブルーとグリーンの色(確かそうだったよね?)が高速の印。
慣れてくると日本のようにゴチャゴチャした看板が無い分走りやすい気がする。
今でこそ、様々な情報はインターネット等で手軽に見られるが、その頃はあまり
情報がなかった。
ホテルも主だった所だけはファックスで予約をしていたものの、後はその場で
の調達である。

この旅行に出る前、南仏で旅行会社をやっている大学時代の友人にフランスの
田舎の情報を収集した。
彼女からコンクや、ラカマドール等の地名を聞いた所から、この度の旅行のプラ
ンをたてた。
この辺りの地域は、私達にとっては全く未知の地だったのである。

高速A47を通り、一般道であるN55に入った。
いきなり田園風景が広がる。ゆっくりと車を走らせる。

小さな村が点在し、30分も走ればまた別の村に着く。
手持ちの地図の中にはない小さな村。
昔ながらの生活を営んでいる人たち。
ここにはゲームセンターもカラオケもない。村唯一のカフェがあるくらいだ。

子供達も、行き交う人々の顔も生き生きとし、とても優しさに満ちていた。

お互い黙ったままで、田舎のドライブを堪能した。
堪能するというよりも、ただ何も考えられなかった。
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「どうして、私は今回、日本人として生まれたのだろう?」

「どうして、この地に生まれなかったのだろう?」

始めてとは思えない景色の中で…。ただ、ただ、それを思った。

優しい光の中で、暮らせる人たち..。
今の私とは、あまりにも違う環境の中で生活する人達。

一体幸せって何んだろう?   富?   名誉? 
そんなものには全く関係なさそうな生活をしている人達のなんと幸せそうな顔。

2時間ぐらいたった頃だろうか?   私達はル・ピュイに着いた。

早速、車を置いて、丘の上のノートルダム大聖堂に向かった。
沢山の人々が同じ丘を目指す。
そうだった、今日は日曜日。

大聖堂の中は、沢山のミサに集まった人たちで溢れていた。
丘の上から赤い屋根の町並みを見下ろす。
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丘から降りて車を少し走らせると、いきなり前方の山に、全く廻りの環境にそぐ
わない銅像が出現した。
1860年にクリミア戦争でロシアから奪った200門の大砲を潰して作ったと言
われるフランスの聖母像だという。
真っ赤な16mの像である。
ちょっとがっかりした後、また暫く走ると、街の外れに小さな岩山の上に建つ教
会のような建物がいきなり出現した。

「何?あれ〜?」慌ててガイドブックを見ると、礼拝堂だという。
そこに行くためにはその細長い階段を昇るしか、なさそうだ。
一体あの建物どうして建築したのだろう。
まさかその当時ヘリコプターがある訳でもないだろうに..と思う。
今思うと鳥取の三徳山も同じようなものなのかもしれない。
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先を急いでいた私達は、登りたい気持ちを押さえてそこを後にした。
今度、もし、もう一度行くチャンスがあったなら、そこは是非、訪れたい場所
のひとつである。

帰った後で、知った。どうもこの度の旅行はフランスから巡礼の最終
地であるスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼のコースの
一部であり、ここル・ピュイはその巡礼の出発地であった事を..。

その頃の私は、「巡礼? なに?それって..?」
全く何も興味もなく、意味も知らなかった。

でも、もしかしたら、私達の巡礼の旅が、この時、すでに、スタートしていたの
かもしれないと思う。

ル・ピュイを後にした私達は、その夜の宿泊先であり、この度の一番の目的地
であるラギヨールに向かった。

途中、小さな村々を通り、写真を撮り、また別の村へ。
この旅行をするきっかけになった一枚の写真。
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あれだけ大事に思ったその風景が、今、あちらこちらに広がる。

火山帯だった丘に牧草が広がり、境界線の意味だと思える石が蛇行して積ま
れてある様が広い牧草地のアクセントになっている。

今、目の前にみえる風景。
最初の感動が、いつの間にか当たり前になっていく感覚を覚えた。
ず〜と昔から、この場所にいるような、懐かしい感覚。
ここでは、音楽も言葉もいらない。
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ラギヨールの街に入った。
いきなりあちこちに小さな工房や土産物屋が立ち並ぶ。
ラギヨールはソムリエナイフで有名な地である。
蝉のマークのあるソムリエナイフ。

その町を通り過ぎて目的地である三ツ星レストラン、ミッシェルブラスに
向かった。
現在は、北海道の洞爺湖にも分店ができたが、当時は知る人ぞ知るレス
トランであった。
フレンチのシェフの友人から聞いていたので知ったのだが、そうでもなけ
れば私達には縁のない場所である。

こんな田舎に本当にあるの?と思えるような場所にそのレストランとホテル
はあった。
そこを訪れる人の殆どが、レストランに併設されたホテルに滞在するようだ。

今は丁度シーズンオフに入ったばかりだったらしく、私達は普段ではとても
高くて手の届かない、町が一望できる部屋を格安で予約できたのである。

無駄な線のないシャープな建物であり、真っ白で無機質なインテリアである。
ベッドカバーの上にウエルカムグッズであるオリジナルマークの印刷されて
いるリュックがあった。
ピクニックに行く時そのリュックにランチを入れていくものらしい。
憎い演出である。

友人のアドバイスにより、明日の朝の朝食をこの部屋で取る事にした。
広すぎる程のバスルームからも変わりゆく夕焼けが見える。
ゆったりとバスルームにつかった。

長い間、夕暮れを見た。
オレンジ色から紫色に変わり、そしてコバルトブルーに変わってゆく。
水平線上に色のグラディーションが重なる。
雲の隙間から眼下にシャワーのように降り注ぐ光..。
夕焼けの神秘を感じた。
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やっと、その夕焼けが闇に変わった頃、私達はドキドキしながら3つ星レストラン
でのディナーに向かった。
別棟の建物にあるウエイティングルーム。
暖炉の側に座り、順番を待った。

メニューリストを持ったソムリエが私達の側にやってきた。
まずは、料理の注文である。
ここでは、裏の菜園で採れる無農薬温野菜が有名だという。
肉(特に羊やウサギ)料理の苦手な私は、メインのお肉のジビエを変更してほしい
とお願いした。
「前菜になるマッシュルームのパイなら出来るよ」と言われ、わざわざサンプルを厨
房から持って来て見せてくれた。

相棒はスタンダードな牛肉のステーキである。
相棒の方は料理はそっちのけで、ワインリストに夢中である。
「さすがだね〜!こんなに沢山の種類のグラスワインがあるなんて〜!」嬉しそうで
ある。
4〜5種類のグラスワインを注文した。
ソムリエが不安そうな顔で、「こんなに飲めるの?」と聞いてきた。
「大丈夫、彼は酒飲みだから..。私は全く飲めないけどね。」笑って答えた。
まあ、所詮私の語学力では、これ位が限界である。

やっと、ディナー。レストランへの道には、小さな水路があり、その水路の上
の石の橋を渡り、私達は窓際の席に案内された。

思わず目を疑った。
我々の席には赤ワインがボトルのまま3本ドーンと置かれ、白ワインが1本
ワインクーラーの中に置いてある。

一瞬、真っ青になった。
「どうして〜こんなにあるの?」
私の頭の計算機がカウントし始めた。   一体幾らになるんだろう?

慌ててソムリエを呼んだ。
「このボトルはどういう事ですか?私は飲めないって言ったでしょう。彼ひとりで飲むの
にこんなに飲める筈ないでしょう」

「いえ、ちゃんとこちらのお客様が注文されました」メニューを差し出し、相棒を見て
答えた。
思わず相棒を見ると、僕知らないよ。と言わんばかりに首を振っている。
いつも冷静を装っている彼もさすがに慌てている。

どうも、半年後にユーロに変わるので、いち早く、フランの値段の横にユーロの値段
が書かれていたらしいのだ。
ユーロのマークに慣れていない相棒は、それがグラスワインの値段だと思い注文し
たらしい。
グラスワインはあちらに栓を抜いて置いてある数種類のものだけだと言う。

「ごめんなさい〜!」もうひた謝りである。
「白ワインだけ頂くので、後の赤ワインはキャンセルしてもらえますか?」
まだ、ラッキーにもコルクを開けてなかった3本の赤ワインを指差してお願いした。
ソムリエは、一度厨房に戻り、笑顔で帰ってきて、
「オッケー、大丈夫だよ」とワインクーラーにつけてあった白ワインまでテーブルから
下げ、新たにあちらにあるグラスワインを注文するように言ってくれた。

さあ、ここからが大変である。もう、恥ずかしいの なんのって…。
見渡してみると、アジア人は我々だけである。
きっと、厨房では、「あの馬鹿な日本人が…」なんて笑われているに違いない。
もう、しっかり被害妄想である。

照れくさいのも手伝って、我々は、ここの照明デザインはどうのこうの..。
お花の入れ方がどうのこうのと..この時とばかりに建築観点での意見を言い合った。

居心地の悪い思いで食事は始まった。

前菜から、フォアグラのソテー。この辺りはフォアグラの産地らしく、私の少ないフォ
アグラ経験での見解からみると、フレッシュで独特の油っぽさのない美味しいものだ
ったと思う。
まあ、ここまでが記憶にある料理である。後は、殆ど何も覚えていない。

あまり有り過ぎる量に圧倒され、どんどん食欲は無くなってゆく。
最後は苦痛そのものである。
途中、奥様らしきマダムが各テーブルに笑顔で挨拶に来られた。
とても家庭的な雰囲気である。このオーナーは大の日本ひいきらしく、あらゆる手法
が日本の料亭を思わせた。

このようなスタイルのフレンチをニューベルキュイジーヌ(新感覚のフランス料理)と
いうらしい。
昔ながらのフレンチはもっとゴテゴテしているらしいのだが。
とんでもない事である。

途中、私は何度もお手洗いと称して席を立った。
少しでもお腹をすかせようと階段を上がったり降りたりした。
2〜3時間あまりかけて、やっとコースが終わった。そして元の暖炉のあるラウンジへ
案内された。
ここで最後の仕上げのデザートとコーヒータイムらしい。
これでもか〜とばかりに、目の前のお膳にまるで3人分もありそうなケーキのセット
が表れた。   
会席膳のようなスタイルである。
もう見ただけで、全く、手をつけられなかった。

勿体ないなんて、次元ではない。
コーヒーだけいただいて早々にラウンジを後にした。

こうして私達の一日が終わったのである。

きっと、グルメではないだろう我々、もう二度と、3つ星レストランを訪れる事はない
だろう。  と思った。
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by necocafe | 2007-07-28 11:39 | Neco茶屋
2007年 07月 27日

フランス・オーヴェルニュへの旅 (新しい出発)  その2

2000年10月6日

朝早く、パリLYON 駅からTGVに乗って リヨンまで行った。
リヨンは食の街と言われる程の世界でも美味しいものの集まっている街で有名である。
フランスの3つ星の主だった所はこのリヨン周辺に点在しているらしい。
私達は早速メトロで旧市街に出掛けた。
朝早かったせいか、お腹が空いてきた。時計の針は12時15分前。
旧市街には小さなレストランが沢山並んでいる。
レストランの外では、コック帽子を被った料理人らしき人たちがタバコをくゆらせ、
コーヒーを飲んでいる。
感じの良いレストランを見つけ、中に入った。
テーブルは、やっと人が横向きになって通れるぐらいに目一杯に配置され、カトラ
リーと色とりどりの紙ナプキンがきれいに並べられている。
「食事はできますか?」と聞くと、中から迷惑そうな顔をしたギャルソンが、わざと
らしく時計を見て、「まだ、12時になっていないよ。12時になってからおいで」
無愛想に断られた。
「お客さんにその態度はないでしょ。ふん!」
日本では考えられない行為である。

あれ? そういえば、殆どの観光客が中には入らず外に掲げてあるムニュー(定食)
のメニューを見ながら物色して歩いているではないか?
どうも、ここリヨンでは昼食の時間がはっきり決まっているらしい。
(他の地方では、10分ぐらい前でも入れてくれる)

私達も周りの観光客にならって物色して歩いた。
12時が過ぎた途端、各レストランからは愛想の良い笑顔のギャルソンが客引き
を始めた。
先程の怪訝の悪そうなギャルソンも笑顔一杯で、愛想のいい事。まるで二重人格。
「もう、絶対あの店には入らないからね」と言ってはみたものの、結局、物色に出遅
れた我々は、身近のそんなにおしゃれでもない路地の近くの小さなレストランに
入っていった。

 手頃な値段だったので、全く期待していなかったのに、手作りのパンに肉のワイ
ン煮込み、デザートのポムドテール(リンゴのタルト)まで、とても美味しい。
「さ〜すがリヨン」と感激。最初は少なかった店内が今や満席である。
こちらの食事は長い。昼食に1時間以上かけ食事を楽しんでいる。
というか、なかなか次の料理がこないから、自然に長くなってしまうのだ。
お蔭で暇つぶしのパンのお替わりをする羽目になり、最後はお腹がパンパン。
リヨンのレストランってみんな美味しいのかもしれないと思う。

隣の方で、なにやら不思議な音が聞こえた。今まで聞いた事もないような低音の
音が響き渡る。
興味新進で私は、ひとり店の外に出て、その音の行方を辿った。
どうやら数件隣の方から聞こえてくるらしい。
どうも民族楽器の専門店の様である。間口は狭いけどかなり奥まで店は続いてい
るらしい。
奥の方は暗くなっていて見えない。
今まで見た事もないような民族楽器が沢山並んでいた。
でも、なんだか踏み入れてはいけない場所のような気がして、遠くから恐る恐る
覗いてみた。
店先では、アフリカの民族衣装をまとったようなフランス人がふたり、大きな筒をし
たような楽器を吹いていた。

後で、それはオーストラリアの先住民のものであるディジュリドューである事を知っ
たのだが。
その当時、日本では珍しかったこの楽器は、ここフランスではとても流行っていた
らしい。
その次の年、イタリアのある街の街角で、路上パフォーマンスで吹いている人を
見かけた。
でも、まさか、その数年後私自身がこの楽器を所有するなんて、その時は思って
もみなかった..。
私の始めてのディジュリドューとの出会いであった。

私達は、サンジャン広場の南から出ているケーブルカーでフルビエールの丘へ
昇った。
丘からは、リヨンの街が一望できた。
遠く霞んで見える景色を、ただただ、何も考えず暫く見つめていた。
ふと、隣にあるノートルダム聖堂を見た。バジリカ式教会であり、リヨンの街から
山の上にそびえ立つこの聖堂は、リヨンの象徴的な建築物である。
あまりに豪華絢爛な建物である。この手の建築はどうも私の肌に合わないらしい。
昨日まで出会った田舎の素朴な教会が懐かしくなった。
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足早に見学し、フルヴイエールの古代ローマ劇場まで降りて行った。
丘を降りた我々は、今話題のジャンヌーベル設計のオペラ座に向かった。
オペラ座の内部の見学はできないけど、今晩オペラがあり、当日券もあるという。
思いがけない朗報である。
「一番安い席でいいわ」
「でもこの席は字幕が見えないけど大丈夫なの?」
「字幕ってフランス語でしょ。どっちにしても解らないからいいわよ。」
笑いながら言うと、「確かにね〜!」と笑いながら答えてくれた。

旅行中、今回のように予定もせずにオペラに行ける事は本当に珍しい事である。
明日からの旅の為に予約していたレンタカーをゲットし、安いけど快適なホテル
で一段落した。
オペラに行くとは思っていなかったので、全く正装らしき服装は持って来てなか
った。
相棒はそれでも、唯一のジャケットを羽おり、私は万が一の為に用意してあった
ショールと3つ星レストラン用にと持ってきた洋服を着、目一杯のアクセサリーを
身につけ、オペラ座に向かった。

あまりにも簡素な入り口を入り、まっすぐ上にのびるエスカレーターを上がった。
まるで工事現場のような雰囲気で仕上げてある。
周りの壁は真っ黒である。足元に小さな光があるだけの闇の世界。
オペラ座というにはほど遠い仕上げである。
その簡素なエスカレーターをきちんと正装した観客が上がってゆく。
私達も一緒にその流れに加わった。
エスカレーターを上がり切り、大きなドアを開けた途端「あっ!」思わず目を疑った。
天井の高い空間には大きなシャンデリアが輝き、金のカーテンが…。
そこはまるで、中世の貴族の館にタイムスリップしたような空間なのである。
今までの暗い闇から一気に光の世界へ…。
闇があるからこそ、この光が引き立つ。憎い演出である。
陰影礼賛そのものの手法。
暫く呆然と佇んでいたが、私達は次に、その光輝くホワイエから観客席のドアを開
けた。
すると、今度は真っ赤な空間である。
一体、何処まで私達をびっくりさせるのだろう?
何処かで、私達の驚く様を見て「やった〜!」と笑っているに違いない。
そんな気がした。きっと、いろいろそんな事を想像しながら、楽しんで計画したに
違いないぞ。
どうも、まんまとやられたようだ。

オペラが始まった。そういえば、今日の演目を見てなかった事に気づいた。
簡素な舞台美術である。大きな古い本の枠だけが舞台に作られ、その中で出演者
が歌い、芝居している。
今でこそ、それなりに私達もオペラの題目等知ってはきたものの、当時は全くの初
心者。
有名所しか知らない我々は皆目検討がつかない。
ふと、これって「シンデレラ」..?相棒にそっと聞く。
「そんな事知らないよ。違うと思うよ。」
「だって、汚い格好して箒をもった女の子と意地悪そうな母親と贅沢な服装の
女の子達..これってどう見てもシンデレラでしょう」
そう、シンデレラだったのだ。それまでオペラでシンデレラがある事を知らなかった。
でも、これなら、台詞は解らなくても理解できる。

1部が終わり、休憩になった。みんなホワイエに集まる。
どうも、今日が初日のせいか、みんなきちんと正装している。まるで社交界のような
感じである。(社交界なんて知らないけど..)
初日には、様々な分野の招待客が来るというから、そういう部類の人たちなのかもし
れないと思う。

私は、まず、先にトイレを目指した。
早めに出た筈なのに、トイレの前には長い列が繋がっている。
いつも思う事だが、何処に行っても日本ではトイレに困る事はないが、外国でトイレ
を探すのは一苦労なのである。
トイレの近い私にとっては死活問題である。
ここでも案の定、これだけの集客量だというのにトイレの数は極めて少ない。
きっと、建築基準法の設備の枠が違うんだろうな。と、こちらの法規を知りたくなった。
「日本より休憩時間が倍以上も長いから安心できるけど、絶対に日本だったら大変な
事になるよ」とひとりブツブツ言って順番の来るのをひたすら待った。

やっとホワイエに戻ると、相棒は少し離れた窓際で私の来るのを待っていた。
遠くから見ると、しっかり生え揃ってきた髭が様になっている。
どうも周りを観察していたらしく「どうもアジア人は我々だけみたいだよ。
背筋をのばそうね」と言った。
どうりで、ちょっときどって立っていた訳だ。
私も周りを見渡し..思わず、誰も見ていないというのに、服装を整える。

が、しかし..直ぐさま、「あそこにシャンパンがあるから、買って来て」
いつもの事だが、私は彼の要望に従って買いに行く。
グラスに入ったシャンパンを持ってきて渡した。
「つまみもいる…」
「え〜??」また、クラッカーとチーズを買って戻ってくる。

ふと周りを見渡すと、殆ど、男性が買い、女性に手渡しているではないか。
ここが違うんだよな〜!本当に…。また、ひとりブツブツ言う。


窓越しには、目の前の建物の彫刻が幻想的にライトアップされている。
夢の世界のようである。日本では考えられない風景である。
この街も街全体が美術館なのだと改めて感じた。

日本では考えられない事だが、オペラの夜は長い。
終わったのは、終電ギリギリの時間だった。
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by necocafe | 2007-07-27 11:10
2007年 07月 26日

フランス・オーヴェルニュへの旅 (新しい出発)  その1

こんなにユーロが高くっちゃ、何処へも行けやしないわ。
1ユーロ160円よ〜! ランチを2000円以上も出さなきゃいけないなんて〜!と…。
声高に、しっかり遠くなってしまったヨーロッパを懐かしむ訳ではないけど、..。
やっと書けるようになった気がする。やっと今..。

この所、めっきり出られなくなってしまったが、以前は随分お金もないのに旅行した
もんだと感心する。

仕事がなかった時、落ち込んで行き詰まった時、建築の勉強に..と大義名分を掲げ
て、子供達を義父母に預けて、たまには、家族でと…様々な国に旅行した。
大義名分の性か、ただ単に我々の肌に合っていた性かは定かではないが、イタリア
とフランスには随分足を運んだ気がする。

「若い内に旅行せずして、年を取って何を語ろうか..。」という言葉があったが、
すでにその「語る」という領域に入ったという事なのであろうか?

今まで、私は、旅行をしたら、1週間以内にその旅の旅行記を書いてきた。
何故1週間以内かというと、..その期間内であったら、辛うじて覚えているからだ。
書いた後は、それはそれは見事な位消えてしまう。それは見事なもんである。
ところが、これから書こうとする旅行記はすぐその後書けなかった。
どうしても書けないのである。
今でもあんなに鮮明に覚えているというのに…。
私の価値観と生き方を180度変えてしまう程、強烈な旅だったからかもしれない。

2000年秋、一枚の写真を見た。広大な草原に大きな石がポツン、ポツンと点在する。
その石には苔がつき、その苔から儚げな草花が力強く咲いている。
ふと、大好きな宮崎駿の天空のラピュタの最後のシーンと重なった。
その写真の場所は、フランスの東にアルプス、西にピレネー山を望むオーヴェルニュ
地方のものだった。

無償に、ここのこの場所に身を置きたくなった。いわゆる大義名分とやらを一所懸命
考え、その場所の近くにあるという世界でも有名な3つ星レストランに行こうという事
で、相棒の了解を取った。

いつもの様に仲間に声をかけ、当初は友人夫婦と私達4名での旅行という流れ
だったのだが、友人夫婦が駄目になり、代わりにその当時のスタッフが参加すると
いう事になった。
が、しかしそのスタッフも我々の緻密な旅行スケジュールを見た途端、出発直前に
なってキャンセルしてしまい、結局私達夫婦だけの旅行となったのである。

さてさてどんな旅だったのだろう。

『2000年10月5日』
朝早く、広島から関西空港に出掛け、KLMでアムステルダムのトランジットを取り、
パリに夜遅く着いた。
フランスの田舎を訪れる前にせっかくのパリ、今まで行けなかったコルビュジェの
建築を見ておこうという事で、朝一番にST、LAZARE 駅からPOISSY駅まで行った。
サボワ邸までバスに乗った。
運転手にちゃんとサボワ邸を教えてね。と念を押したが、やはり心配で運転手の横
に立った。

目で合図した「まだ?」「ここ?」..。    
 「いやいやまだだよ。ちゃんと教えてあげるから..」
手に持った三脚が立っているお客さんの邪魔になっている。

「パードン、パードン」と謝りながら、バスを降り、丘の上にあるサボワ邸に到着した。

空は真っ青に澄み渡り、芝生と真っ青な空、そして真っ白の直線の建物のコントラス
トが美しい。
まだ朝早かったせいか、殆ど観光客はいないようである。
このサボワ邸はつい最近リニュアルしたばかりのようで、私の知っていた建築写真の
中にあるものより数段きれいに見える。

真っ白の壁、円柱のピロッティーと直線。 
余分な線が一本もないようなデザインである。
カーンカーンと足音だけが建物の中に響き渡る。広いリビングにはコルビジェの代表
作である椅子達がいかにもこの空間の主であるかのごとくに配置されている。

静寂な空間を楽しんだ。    ひとり建物から庭に出た。
まだ、太陽が低いせいか、建物にはっきりとした陰影を映し出している。
建物の横でいかにもフランス人らしい女性がひとりでタバコを吸っていた。
目と目が合い、挨拶した。   どうもここの管理人らしい。
「きれいになったでしょ。つい最近リニュアルしたのよ。まだ、朝早いからこんなに
空いているけど、昼間は観光客で一杯になるの..」
珍しく慣れないフランス語で話した。
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庭の入り口の方からどうも観光客らしき団体が見えてきた。
あっという間に、先程までの静寂な空気が、大勢の人の話声で騒がしく反響する
空間に様変わりしてしまった。

「ラッキーだったね」相棒と先程の女性の教えてもらった駅までの近道、郊外の
住宅街を歩いて降りて行った。
簡単な昼食を取り、次の目的地であるもうひとつのパリにあるコルビュジェの
代表作であり、現在コルビュジェ財団になっているラロッシュ・ジャンヌレ邸に向かった。

ここジャンヌレ邸はコルビジュのパトロンであったジャンヌレの別荘として建てられ
たものだ。

駅から先程の郊外とはうって代わり、界隈という名のような町中の坂を昇りやっと
目的地に到着した。
玄関口に入った途端、一台の車から太ったおばちゃんが出て来た。
書類カバンを片手に持って、「ふん!」と機嫌悪そうに足でドアを閉める。

「怖〜〜!!一体あの人何者?」
彼女が、どうも以前コルビュジェ研究家から聞いた事のあるあの気難しい事で
有名な○○さんらしい。
いかにも….。と納得。   すぐ解ってしまった。

先程のサボワ邸よりも数段大きい空間の壁に沢山のコルビュジェの絵画が展示
してある。天井と壁の間に作られた窓が室内にスリット状に光を流し込む。
日本の、いや今や世界でも有名なコンクリート打放しで得意な某建築家の得意
とする技も、このコルビュジェの見まねから来ているのだろう。
殆どの建築家に大きな影響を与えた人である事を、改めて確認させられた思い
がした。

日本でのふたりの間での緊張感もこの地に来たせいか、段々緩んできていていた。
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「ひげ剃りがない。何処に行ったか知ってる?」
トランクの何処を探しても見当たらないらしい。
「まあ、いいじゃあない。どうせ、私達ふたりだから…」
のび始めてきた相棒の無精髭を見て言った。
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by necocafe | 2007-07-26 09:58
2007年 07月 25日

「ひろしまハウス」を知っていますか?

昨日、建築家、石山脩武さんの基調講演「ひろしまハウスを語る」、石山修武さんと
平岡敬さん、錦織亮雄さん対談「ひろしまハウスがカンボジアから日本を笑う」という
とても興味深い講演会に行ってきた。

ひろしまハウスは、かつて原爆投下によって廃墟と化した広島とポル・ポトによる
大虐殺の歴史を持つカンボジアの人々が、20世紀の悲劇を忘れぬようにと、両国の
交流をベースとして計画されたものである。
13年をかけてやっと昨年完成(?まだ、いろいろ計画は膨れそう)した。

このひろしまハウス、..アジア大会の時、ポルポト派からやっと解放され始めての
オリンピックへ参加できたカンボジアの選手を受け入れた市民交流会の代表で
あったある女性の一言から始まったものである。
http://www.epocaclub.com/kagayaku/zkunitika.htm

丁度、石山先生の講演会の後、「カンボジアにひろしまハウスを作ってよ。
勿論、ボランティアでよ。あなた出来るでしょ。」と言われたか言われなかったか..
まあ、そんな軽いノリで石山先生に提案された事からの始まりらしい。

あの石山先生にそんな言葉が言えるなんて...。凄い。。
私達も、行きがかり上、6年前にカンボジアを訪れ、このひろしまハウスのレンガ
を積みに行った事がある。
一体、こんな大きいもの、本当に寄付だけでできるんだろうか?
正直そう思った。きっと、これはこのままカンボジアで廃墟となって、...ゴミ??
なんて、思った程、とてつもない建築物だったのである。

カンボジアでも、広島でも、数度、石山先生にはお会いした事がある。

当時「鬼と金棒」だ〜!と言われたぐらいの、ある女性と私のペアでも、こてんぱんに
やられた事もあった。(結局リベンジできずに大敗)

そんな頑固な石山先生が変わられた気がした。
このひろしまハウスに関わられた事で..。

何度も出た言葉。「私はここ広島に来る事が楽しみでもありますが、正直怖い事でも
あるんです。」
「私は、こんなに大きい建物を建ててなんて言わなかったのよ、もっと、小屋のような
ものでも良かったのに...」と言われた事もあったという。
(うん、確かに...私も当時、そう思っていた)

でも、きっと完成しないだろうと皆が思っていたものが、出来た。

完成式の時、石山先生も、代表である平岡敬さん(前市長)も嬉しい顔ではなく
寂しい顔だったという。

たまたま隣の席に座られた広島からカンボジアへのツアーを企画していた方が
(結局13回行かれたという)ぽつりと..

「完成しないと思っていたのですが、....これって、人間の力ではないですよね。
何か大きな力で動かされたから出来た事だと思います。」

このレンガ積みには世界中から何千人という人たちが参加したという。
その中でも、一番多かったのが、ドイツ人だとか....。

アウシュビッツと原爆とポルポト..20世紀の3大悲劇である。
ドイツの人たちは当時の建物をその当時のまま大事に保存している。
ドイツの大学を訪問すると、何度も何度もその場所に石山先生は連れて行かれ、
こう言われたという。
「私たちは忘れるという事が一番怖い事なんです。  また、同じ事を繰り返すかも
しれないという事が..」


「ひろしまハウスを建てる事ができた広島市民は、もっと大声を挙げて正論を
吐いていいんです。
ひろしまには、その権利と義務があるんです。  義務と尊厳があるんです。」

このひろしまハウスを建てる事で、石山先生自身もきっと何度も何度も難問を
突きつけられた事であろう。

「ある時、ひろしまのおばちゃんから、トイレの便座はウオシュレットにして..って
言われたんです。昔の僕だったらとんでもない事なんですけど..まあ、これも
いいか?なんて思えるようになった。」

え〜?そんな〜〜?? まさか、こんな言葉が出るとは思っても見なかった。

「最初は随分いろいろな事で揺れ動いたけど、段々このひろしまハウスに関して
自分の中で太い柱のようなものが出来てきたんです。」

広島の原爆ドーム..そして同じシンボルがカンボジアに「ひろしまハウス」として
出来たのである。

そしてとても印象的な写真があった。マザー・テレサの施設『死を待つ人の家』
でのワンシーン。
後僅かの命である建築家が穴を掘って石を積みながら、自らみんなの為のトイレ
を作っている姿である。(そう、恥ずかしながらも、私も同じ職を持っている)
 そして、この場所に何度も訪れられている石山先生の生き様を思った。

 何度も何度も石山先生の口から出た言葉...。
「広島のおばちゃんは....広島のおばちゃんは凄い」

「被爆後の広島のまちづくりはあまりにもきれいすぎる気がする。人間臭さがない。
人間が生きる街として..」
その言葉の後ろには、これだけパワーのあるおばちゃん達のいる街なんだよ。
もっと、それを正直に前に出したら..?と言われた..と思ったのは私だけだろうか?

ひろしまは動かないんじゃあない。ただ、進みたい道がまだないだけ....。
そんな気がした。

何度も何度も繰り返された  『ひろしまのおばちゃん』...。
これって広島ブランドになるのかしら..?
と、全く自分は関係ないわ〜!と思っている  わ た し....。

6年前に訪れたカンボジアのツアーを書いた文章がある。お暇な方はどうぞ...。
(いつもながら、だらだらと長い文章を書いてしまった。これまた長い...。
お付き合いくださった方がいらしたら、心から感謝です。)
http://leo-plan.co.jp/contents/tabi/hirosima_hous/hiroshima_1.html
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by necocafe | 2007-07-25 10:44
2007年 07月 23日

インド文化との出会い...。。

 昨日の出来事。
朝早く起きた。    息子の試験会場までの送りである。
出掛けにおばあちゃんが..「これを朝食に食べさせてやって!」と
朝作った巻き寿司とお茶が入っていた。

私たちふたりの見送りと弁当にびっくりした息子は、一言..。

「まるで、出兵するみたいだ〜!   このまま生きては帰って来ないから...」
そういえば、すでに頭は丸坊主...。いかにも...である。

その息子を夕方迎えに行った。
結果の程は○○○...。

ちなみに、数日前、私は夢を見た。
息子がリュックを背負ったまま、柿の木(なんで、柿の木なんだ〜?)から落ちる夢。
滅多に夢に息子は出てこないのに....ふむふむ。。

夢判断の程は...??   まあ、どっちに転んでも、これでまた、悪いのは全て私の性にされて
しまいそうな気配だ...。

息子を励ました後、
たまたま来た一枚の案内状からインド7大古典舞踊「バラタ ナーティヤム」を
見に行った。
http://www.google.com/search?client=safari&rls=ja-jp&q=バラタ ナーティヤム&ie=UTF-8&oe=UTF-8

知りあいのお寺での開催である。   参加費:浄財 (ふむむ??つまり、自己申告なのだ)
始めてのインド文化との対面である。

小さなお寺(素敵な中庭を面しての設計)の本堂にざっと30〜40人ぐらい(?)の
参加者である。
私達はたまたま真ん前にあぐらをかいて座った。(正座ができない..)

以前、せっかくスポンサーでインドに行ける事になった事があったが、その時は、
○○舟のイベントが始まる頃で、泣く泣くキャンセルした事があった。

あれ以来、私のあこがれの国インドは、消去ボタンを押してしまい、私の中では、
インドは遠い 遠い 国の事になってしまっていた。

舞踊団の説明を聞いてびっくりした。
どうも、ここ広島以外では殆どが大きなホールや特別の席での公演らしい。
インド政府から諸外国に派遣されているインドを代表するダンサーのひとりとか...。。
え〜?  いいの〜?   そんな踊りをこんな真近で見れて??
かぶりつき....。。。汗の具合まで手に取るように解る。
 
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そして、なんと、今年は日印両国での「日印交流年」として相互の伝統文化を親交
に交流しているとか...。
http://www.a-net.shimin.city.hiroshima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?

参加者の誰一人として知らなかった...。。
これって..??  

4名の歌と楽器の演奏が始まり、ガナーシャの踊り、シバ神の奥さんのビシュヌ神の踊り
(ビシュヌ神の9つの心を踊ったもの)、サラスバティ(弁天様)の踊り、アルマパーリ..
(ブッタ)...。。。
聞いた事のある神様の名前は出て来たものの、殆どが全くの未知の世界である。
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最初は、これは手話だな〜? と思ったが、段々内容がつかめてくるにつれ、そうか〜?
これはひとり芝居なんだ〜! とひとり納得。
 
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身体中のありとあらゆるものを100%使い表現する..。
踊りというより、ひとり芝居...。そんな気がした。
表現方法は違えど、神に捧げる舞いにはどの国にも共通したものがあるように思う。

ちょっと、私の中で、インドが近くなった気がした。

さてさて、私にもう一度、チャンスは来るのだろうか?

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by necocafe | 2007-07-23 11:40
2007年 07月 22日

今年も8.6が....。。「ひろしま」から

昨日、電車の中での話し。

市内のまちプラでのミーティングに参加する為、久々に娘と電車に乗った。
たまたま座った所がシルバーシートの隣。
横に座っておられたきっとお葬式からの帰りだったと思える姿のおばあちゃんと、
席の譲り合いから会話が始まった。

「私はね、こうして皆さんのお蔭で生活させていただいているのよ...。
年金だけで、こうして毎日何の不自由もなく生活させてもらっている事、
皆さんに感謝しているの。
だから、老人に配られる無料乗車券も一度ももらった事がないの..。
でも、そのお金は何処に行っているんだろうね〜?」
から始まり、子供の頃の大日本帝国の教えや、日本の歴史、自分の被爆体験等....。
そしてこれからの世代への不安、日本の行く末の不安等...

延々と五日市から市内までの40分間、全く見知らぬ私を相手にお話しは続いた。

途中何度も何度も、「こんな年寄りの話しを聞いてくれてありがとう。ありがとう。」
とお礼を言われた。

そして、「あなたは、宗教でもやってる人?」

「いえいえ..別段。家は浄土真宗ですけど...」

「ふ〜ん?そうなの??」って言いながらも、話は続いた。

ふと、そうか〜? 今、世の中ってこういう時代なんだ〜?

話しを聞く人さえいなくなっているのかな?  ふと、寂しくなった。
隣では、黙って聞いている娘がいた。

そして、最後に、しっかりと目を見て、涙ぐまれながら、
「あなたの目が光っているのよ。 きっといい事をされている人でしょうね。
年寄りの話しにつき合ってくれて、ありがとう。」と言って電車を降りられた。

一体あのおばあちゃんは何故、私にこんなにも話されたのだろう? と思った。

それも、丁度、ある平和に関するシンポジュウムへのミーティングに行く途中の出来事だった。

このおばあちゃんのような思いを抱えた人たちは、広島には沢山おられる事を知っている。
もうひとつの広島の顔。

よく、広島の人は動かないと言われる。
広島で行われる平和のイベントには殆どの人が無関心を装っている。
私もつい7年前まではそうだった。

私も主人も被爆2世。
被爆地から5〜600mしか離れていない場所に中川の家はあり、
奇跡的に助かった90歳になる義母と同居し、暑い夏になると、恒例のように被爆の時の
話が出る。

私も何度も何度も聞いた。私の子供達もそう。

でも、最近解った事がある。
私の母は、8.6の1週間後に疎開先から父を探しに広島市内に入った。
当然被爆者であり、原爆手帳をもらえたのだが結局申請をしなかったのだ。
父もそう...。

母はその時の事は一切口をつぐんだままだった。
知ったのは、ず〜と後になってから...。

先日、野外上映会で「夕凪の街、桜の国」
(この本当の原作は原爆詩人である、大田洋子さんの同名小説だという
事を先日ある方から聞いた。その事が書かれてない事が残念である。)
の映画を見た時、その主人公と母が同じ年である事に気づいた。

やっと、何故、母が私にその時の事を私達子供に伝えなかったのか解った気がした。
私の結婚の事や、被爆していなかった同居していた祖父や祖母との関係を思い、やっと
長年の母の思いが少しだけ解った気がした。

60年たった今でも、この時期になると、「ひろしま」を意識させられてしまう。
自分の中の言葉にできない思いがこみ上げてくるのだ。

最近、気がついた事がある。
私の思いって重いのかな?って...。
みんな楽しい、軽いノリで参加できる事は、自然に盛り上がる。

「ひろしま」を意識し始めて7年がたつ。

そして、今年も8.6が近づいた。
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by necocafe | 2007-07-22 14:11
2007年 07月 12日

アロハスピリット ホクレア号クルーからの手紙

先日、日本を訪れたホクエア号のクルーからのメールです。
この方は、広島には訪れておられませんが、とても流暢な日本をしゃべられる方です。
中身を若干原本より解りやすく変更しています。
...にしても、これだけの内容をスラスラと書けるなんて、凄い〜!
〜〜〜〜〜〜〜〜
アローハ!!僕に似ている人が先ほどハワイに帰ってきました。
今年125日間をかけてカマヘレ号、ホクレッア号、とアリンガノマイス号と一緒に
ハワイから横浜までの航海の間に素晴しい人達に毎日に出会って、
やっと自分の家へ戻ってきました。

僕に似ている人がハワイに帰って来たと言うのは、出かけた時の僕と、帰って来た
時の僕がまるで違う人に感じるからです。

五ヶ月半前に僕はオアフ島からカマヘレ号に乗り、2007年1月13日にこの旅を始
めました。
この間にいろんなチャレンジ、苦しみ、悩みに出会って、ふだん出会わない経験を
数えないほど味わって、私は自分の事の勉強になり、地球の事もこの地球に住んで
いる人々の美しさを気づき、自分が自分の事を知らない事に気づいた。

僕が今、一番したい事は自分の人生をより以上にし、手伝ってくれた人々に感謝し
たいです。ありがとうございます、THANK YOU。
僕が出会った人、全員がぼくの人生を良い方向に変え、気づかずに僕を変えて
くれた人も、 正しい方向に導いてくれた人々に、本当にありがとうございます。
良くしてくれ、ありがとうございます。感謝をしています。

今回の旅が終わってからホクレッア号をちょっとバラバラにして、別の大きな船に
乗せハワイまでに送りました。
その後、カマヘレ号には日本人のクルーが乗り6000キロメートルの海を横断して
ハワイまでに船を運んでくれています。
今までのクルーがハワイに戻った日から、僕は航空券を変え日本の滞在を二日
伸ばしました。
カマヘレ号が無事に出た事を確かめてから、日本一高い富士山に登りたい気持
ちがありました。
ちなみにカマヘレ号は7月の20日ごろにハワイに到着すると思います。
乗っているメンバーは日本から六人とドイツから一人。
彼らのアドベンチャが始まったばかりですが、私達のアドベンチャの続きでもあるし
私たちのアドベンチャがその前に来た人の続きでもある。

ハワイに到着する事を楽しみにしています、彼らの話を聞きたい!
カマヘレ号を横浜ベイマリナから出発した次の朝一のバスに乗り、富士山へ向か
いました。

六時間後に富士山の二千メートルに五合に着いて登り始めました。
長袖と半袖しかもって来なかったのに雨が降って雪がまだ積っていました。
実はまだ登る時期にはなってなくて全部閉まっていました。
それでも頑張って上までに行こと決め、2800メートル(七合)までにあがった所で
ちょっと休憩しました。
僕はびっしょり濡れて洋服からゆげがすごくでていました。

五分休憩したらすごく寒くなり体を温めるためにまた登りだした。
それで雪と氷が始めました。
氷った雪の上で、歩き始めたら道がわからなくなって、靴が山登りの靴じゃな
かったので滑り出した。
体が滑る事を止め、船の一人の船長ナイノアさんの良く言う言葉を聞いた、
「何もよりも安全」。

本当に富士山の頂上に登りたかった。
登っている人はいなかったし、頂上で今までに僕の人生を変えた事も、変えた
人々も経験も、これから会う経験や人々に祈る事が目的でした。

富士山の頂上へ登る事は今回出来なかったが、登る道からちょっと離れた所
で山にひびを見つけ、ここを、大事な場所と決め、祈りをしました。

僕が自分にとって大事な石を、ひびにおいて、ひびの上にハワイの葉っぱで
出来たティのレイをかけて、ハワイの塩をおいて、それで小さな祈りをして、
日本の純米酒を石にかけて、お水が入らないケースから一本のフィルタをぬき、
タバコに火をつけて置きました。
私は溶けてなくなる物だけおきました。
いろんなために祈りをして、これから向う夢も、すでに叶った夢にも、世の文化が
合体するようにも、各文化の素晴しさにも、過去の事にも、今の間にも未来にも、
僕のためにもあなたのためにもこれからのためにも祈りました。

置いた石は過去で変えられない存在として全てがこの過去に作られ、純米酒は
今の存在で変えたり変えられたり、良い方にも悪い方にも行ける事で、煙はまだ
現れていない未来の存在としておきました。

こんな小さなイメージを持って、僕は未来のための過去を良くすれば、さらに未来
をさらに良くなる事を願っています。

とりあえず私たちが今出来る事は、生きる事で、それを出来るだけ純粋に生きるように。

この小さな祈りをしてからまた山の道へ戻ろうと思った時に、僕の後ろに地面に
四角い石が置かれ、この場所は特別な祈る場所だった事に気づきました。
鳥肌が立ったけど、僕が寒くて出していたからかも知れません。

温めるために残りの道を走って降りて、ぎりぎりに最後のバスに乗りました。

言いたい事があります。基本的に山で物を作ったり、置いたりする事は勧めません。
僕がおいた物は小さくて道からはなれて次の雨や雪でとけ無くなる物です。
山で物を採ったり、置いたりする事は山の素晴しさをいじることです。

山の天辺に祈りをおいて、納得を上から持ち帰る事は自分を素晴しい山に育
てる事です。
富士山の下に着いてホカホカ温泉に入り、半年分の疲れと汗と涙を洗い流し、
体を伸ばし、筋肉痛は、これからの筋肉のためで、これからの人生は毎秒毎秒
新しく生まれている事に感動しました。

本当に感謝をしたい大きいな人も、小さな人も私の人生を協力してくれた事も
この人生マラソンに応援してくれて「頑張れ!」と言ってくれた人にもTHANK YOU.
この旅はあなたのため。心から感謝しています。

これからの旅にも出あう事を楽しみにしています、人生の山道で会いしましょう!
いっぱいアロハを込めて、ALOHA,
Sam Monaghan

P.S. 今回の旅の話をもっと詳しく知りたかったら下のウエブサイトをチェックして下さい。
自分の経験を話にする事はまだ出来てないけれどいつか完成します。
他のクルーの話もかなり勉強になるので時間があったら見て下さい。
そろそろ仕事に戻らなければ行けません!僕が司会をしているテレビ番組のアロハ
天国は今年で六年目になるし、日本のスカイパーフェクト放送以外にハワイの全て
のホテルで見られる事も出来ます。

六年目になる事がビックリです!こんなに長〜く出来るとは思わなかった。
本当に感謝しています。アロハ天国の司会として本当に祝福されています。
出来るだけハワイへ遊びにくる人をより多くハワイを楽しんでもらう事も、ワイキキ
から出てもっといっぱいハワイを知ってもらう事が嬉しいです。

この放送間に千カ所以上紹介して、ホテルやレストランや遊びの他に単純のハワイ
の楽しみ方を楽しみながら皆様のテレビまでに運んでいます。

テレビの他でJAL(日本空港)のウエブサイトにコーラムを書いている事が二年目に
続いています。
ほとんどのコーラムは店の紹介よりハヴァイッイの買い物無しの楽しみ方の話をし
ています。
とっても楽しいコーラムで僕はハワイをリサーチや勉強して知らなかった事もいっぱい
掘り出して、この土地に近づいた他に守る事も気づきました。
ハワイの王様が言った言葉、「土地の命は正しい事で生を求める」
ウア マウ ケ エア オ カ アイナ イ カ ポノ。
で人々のポノ(正さ)を知りたかったら土地の健康で分かります。
ワイキキに住んでいる僕も窓からアラワイ運河を見て直さなければ行けない所を
気づきます。
一つ勉強になった事は「地球を変えるには自分から始めなくちゃ」。
皆さんも変更成功を願っています。
この手紙を送ってから僕はカウアイ島へ向い私の家族と大事な時間を過ごします、
特に私が愛している二歳の息子、マカヘキリ天渡くん。その後にまた会いましょう!

http://pvshawaii.squarespace.com/ (旅のレポート)
http://pvs.kcc.hawaii.edu/(旅の全ての話)
http://hokulea.aloha-street.com/ (日本語のサイト)
http://entame.express.jp/tvinfo/aloten3/index.php(私のテレビ番組サイト)
http://www.jal.co.jp/hawaii/samlog(私のジャルのコーラム)
http://www.joyhula.net/friends_contents/aroten/index.html
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by necocafe | 2007-07-12 10:01 | Neco茶屋