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Neco の 陽なたぼっこ

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2010年 07月 30日

逝った義母へ、心からの感謝を込めて...。

「おかん、蝉が急に泣き始めたね」義母が寝ている病院で息子と数日前に語りました。
今朝も早くから我が家の蝉が泣いています。
もうすぐ8.6。義母に8.6の式典の招待状が来ました。

28歳で被爆した義母が7月27日、逝きました。
突然の出来事でした。

以下、きっと私の事ですから、長々となってしまう事と思います。
個人的な記録文としてここに、書き残しておこうと思います。










 7月24日(土)「海にありがとう」キャンペーン。
朝から落ち込んだり、反省したりしながらも、暑い中にも関わらず、事故もなく、
無事終える事ができた。
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ぐったりとした身体で夕方、仮眠を取っている所に、相棒から電話が…。

「すぐ来て、ネコが..」一体何事やらと事務所に重い身体を引きずっていくと、
先日から居なくなっていたミューちゃんと同じ位の大きさの猫がいるではないか…。

どうも、車に引かれそうになった猫を友人が「お土産!」と言って持ってきたらしい。
前のミューちゃんがシルバー色だったのに反して、この度の猫は色も目もゴールド色。

何故か始めての我が家にも関わらず、逃げ隠れもせず、まるで、堂々とこの家の主の様
に横たわっている。
身体中が痒そうである。
早速、のみシャンプーを買い求め、相棒がお風呂に連れて行った。

お風呂に入って約40分。
「凄い蚤だったよ〜」と出てきた。蚤も凄いけど、大人しくシャンプーされていた猫も
凄い。
美形だったミューちゃんには劣るものの、なかなかユニークな顔をしている。

「ね〜、この猫、何だかおばあちゃんの顔に似ていない?」そういえば、色白の所といい、
寝ている顔が義母の顔に似ている気もする。
「ゴールドってフランス語でどういう?ドイツ語は?」
結局、フランス語を取って、とりあえず、『オウル』と名づけた。

肌恋しい猫の為に、私は寝用具一式抱えて、一晩この猫と過ごす事にした。

私の顔の側や足下、常に側に寄り添ってくる。
結局朝方まで寝付けないまま、少し寝て、7時過ぎ、猫ちゃんに起こされた。

「おばあちゃん、大丈夫だろうか?」携帯は家にある。どうも気になる。
家の携帯を見ると、義母からの着信が…。5分前に...。
慌てて、母の所に様子を見に行った。
すると、母はベッドには居ない。トイレに汗一杯出して屈んでいた。

トイレまで間にあわなかったらしい。
「圭子さん、良かった〜そこを拭いて」まず、言った言葉が母(義母)らしい。
でも、どうやら、そんな次元ではないらしい。どうも様子がおかしい。

身体をきれいにして、何とかベッドまで連れて行った。
自力で歩けるまで回復していた筈が、2週間前にベッドの横で尻餅をつき、
それが原因か、何とか歩行器を持って歩けるものの、リハビリでは車いすを使うように
なっていたのだ。

前日のリハビリの朝、いつもは用意周到の母が、リハビリに出る前にお腹を下し、
それでもリハビリに行き、(その日が『海にありがとう』の日だった)帰ると
やはり、お腹を下していたのだ。

その時の便が黒かったのを思い出した。
「もしかして、これって血便?」そう思った。
慌てて、看護士をしているお嫁さん(Yちゃん)を起こした。
パジャマのまま駆けつけてくれたYちゃんと主治医の先生に電話をし、近くの病院を
紹介してもらい、救急車で運んだ。

救急車に乗るのは、一体何度目だろう? 6〜7回目だろうか?

家から3分の所にある病院に母は入院する事になった。
呼吸は少し乱れているものの、まだまだしっかりと会話も出来る状態だった。

「個室しかないのですが..」案内された部屋は303号室。
その番号を見た瞬間、ここで母が亡くなる?そんな予感がした。

「何て事考えてるの?」自分で自分の考えを打ち消した。

新しく広々としたまるでホテルのような素敵な病院である。
日曜日の為、当直の先生のみだった。
とりあえず、点滴のみでの治療となった。

「圭子さん、もう一日早く入院すれば良かったわね〜。そうすれば、詩歩に面倒
みてもらわなくても済んだのに…」
昨夜、娘が寝る時に(母の寝ている部屋の上に寝ている)娘にオシメを換えてもらった
という。 数日前から夜にはオシメをして寝る事にしていた。

「まさかね〜詩歩にしてもらう事になるなんて、考えても見なかったわ」
母にとって、孫に面倒を見てもらう事はかなりショックだったようだ。

「冷蔵庫にあるスイカを詩歩に食べさせてあげてね」こんな時でも孫の心配をしている。
子供達はこの母に育ててもらったようなものだった。

「今、TVでね、こんな体操をすれば痩せれるんだって…圭子さん詩歩に教えてあげて…」

「新聞でこんなダイエット食があるらしいんだけど、詩歩にどうかな?」

孫の肥満の心配をする傍ら、常に冷蔵庫には孫用の食べ物を用意しているそんな母だった。

「あさって生協なんだけど、私はすぐ退院するから、それまでは、今まで通り、
あなたの欲しいものを注文して、タックンの所と、千枝子の所とあなたの所と
分けて持って帰ってね」
近年の母の楽しみは生協のカタログを見る事だった。

いつも、孫と嫁いだ娘と我が家と、3家族用のものを同等に注文し、1週間に一度、皆に
持ち帰えらせてくれていた。

私は毎日多めに作ったものを母の所に持っていくだけで、後は殆ど母が自分で準備し、
自分一人で食べていた。
自分が人にしてあげる事は惜しみなくするのだが、人に自分がされる事、お世話をかける
事が一番駄目な人だった。

こんな時にまで、こうやって、孫の事、私たちの事を考える人である。

段々と呼吸も安定してきた。
実は、明日、ウイーンからのお客様が我が家にお泊まりになる予定だったのだ。
重なる時には重なるものである。でも、かえって病院の方がこの暑さに家にいるより
安心かもしれないと思った。
病院からの資料には、入院予定は2〜3週間と記されていた。

「暑い夏の間と魔の2月には、こんな快適な病院にいれる方が身体が楽よね〜」母と笑い
ながら話した。

義父が亡くなったのが10年前の2月9日。
それから数年に渡り、同じ2月に、義母は緊急入院した。
大腿部骨折で救急車に運ばれたのも今年の2月であった。

「明日だったの?ウイーンからのお客様は….。家でするから、今回は見れるわ〜と
楽しみにしていたのに…」とても残念そうである。

「大丈夫よ。ちゃんとビデオに撮って置いて、終わったらここに持って来て見ようね」

Yちゃんが病院に来てくれた。
どうやら、試験に行った息子が法令集を忘れて行ったとか…。
(丁度救急車で運ばれた日が試験日だった)
一体何をしているのやら…。
と言っても、私自身も試験の時に一度法令集を忘れて行った経験があるので、人の事は
言えない。
私の時は、始まる前にタクシーで近くの書店に駆け込み、結局消防法の法令集しかなく、
それで受験した経験があった。

友人がその昼に我が家の人数分のうなぎ弁当を持ってきてくれていたので、
その弁当を持って、一緒に届けるという。
それまで、Yちゃんに母を看てもらい、私は家の掃除に帰った。

安定して居る様子なので、夜は一旦家に帰って寝て、朝6時前に病院に潜り込み、
母の病室に入った。
「ま〜こんなに早くから来たの?昨日はYちゃんがソファーで寝ていたよ〜よく眠れました!
って..可愛い子ね〜」
私もYちゃんに習い、母の病室のソファーで一緒に寝た。

「ここなら冷房も効いているし、おばあちゃんの様子も分かるし、安心して寝れそうね〜
今晩は一緒に寝るわ〜」笑いながら話した。

暫くして、バタバタと看護士さんが出入りされ始めた。
昼過ぎに来られるお客様の用意に一旦家に帰ろうとした時、若い介護士の方が
お風呂の準備をされ始めた。
「え〜?こんな状態でお風呂に入れるのですか?」
「はい。先生から許可が出ています」びっくりした。

その事を母に話すと、「私は、お風呂に入りたいわ〜大丈夫よ、寝たままでお風呂に
入れてもらえるんだから…」

「ちゃんと検査して確認してからにしてください!」ナースセンターでお願いして帰った。

それから2時間後、たまたま母の病室を覗いた相棒がびっくりしたように言った。
「おばあちゃんの所に寄ったら、苦しそうに酸素マスクをしていたよ」

「あ!お風呂に入ったんだ〜!」慌てて病院に行った。
案の定、あの状態でお風呂に入ったらしい。

この日は大植さんのチャリティーコンサートだった。
一緒に行く予定にしてはいたものの、どうもそれどころではなさそうである。

ラッキーにも我が家に来られる予定だったお客様も直接コンサート会場に
行かれる事になり、私はこのまま病院で母を看る事ができそうである。

相棒や息子は役所に行ったり、図面を描いたりと忙しそうだ。
義妹が病院に来てくれた。私の代わりだったのだが、心配で帰れない。

それから2時間後、病室から私は出された。どうもカテーテルの準備をするという。
いやに時間がかかっている。バタバタと様子がおかしい。

約1時間後、病室に入ると、まるでテレビで見るような風景が目に入った。
口の中に人工呼吸器の管を縛りつけられた母の姿があった。
途中で肺気胸をおこし、急遽このような処置をしたらしい。
さっきまで普通に話しをしていた母がである。

唖然とした。一番母が嫌がっていた姿である。

「私は家で死にたいの。朝、いつも開けられてるカーテンが閉まっている、変だなと、
様子を見に来たら死んでた。これが理想よね〜」
10年前、心筋梗塞で救急車を呼んで生き返った時の事を今でも母は言う。

「あの時、圭子さんが救急車を呼ばなかったら、あのまま痛みもなく逝けたのにね〜
今度同じ事になったら救急車は呼ばないでよ!私は心臓が弱いからすぐ逝けると思うの
よね〜」
「おばあちゃん、そういう訳には行かないわよ!」
いつも私たちが交わしていた会話だった。

担当医から今の母の様子を聞かされるが、理解できない。
でも、このままだと確実に母の命は危ない。
沢山の承諾書を書かされた。
「あ〜こうして、後でクレームがつかないように、処理されていくんだな〜」
ふと、そう思った。

そして、もう一枚承諾書を書いて欲しいと依頼があった。
もし、本人が自分の身体に入っている管を外そうとしたら危ないので
身体を拘束します(縛る)という内容という。

私が留守の時、ドクターから聞かされた。
息子達が言った、「じゃあ、私たちが側に居て、手を動かさないように
看ておけばいいんですね」

これからいつまで続くか分からない状態で、どれだけ私たちが看れるのだろう?
きっとそんな状態での事も想定しての内容だったと思う。
「おかんがいたら、きっと切れてたよ!」息子達が言う。
「そうかな〜?」詳細を聞いていたら、確かに私なら、切れていたかも?
そう、思った。
その時の家族とドクター、看護士さん。
それぞれの立場と心境の中で生まれたのだろう会話が想像できた。

ウイーンからのお客様と夕食をし、私と息子と娘、3人が病院で泊まる事になった。
どうやら、今晩が峠だという。

一人が母の側にいて、一人がソファーで寝る。これは容易に想像できるが、
3人だとどういう風景になるのだろう?

でも、2人の子供達は誰一人帰りそうになかった。

時々「この管を外して!こんな事をしてまで生きたくないわ!」と言わんばかりに、
動かす手を持って、
「おばあ〜ちゃん!!甘〜い!そういう訳にはいかないんだから…。諦めんちゃい!」
「そうよ〜〜!」「ね〜〜見て!!」「こんな狭いソファにママと寝るの〜?嫌じゃ〜〜」

まるで病室とは思えないような、騒がしさと明るさ。
そこに頻繁に出入りされる看護士さんまで巻き込む。全く危篤状態の患者の病室とは思えない。

昨日受けた息子の一次試験がどうやら、合格ラインに達しているらしい。
信じられない。今年は全く勉強していなかったのだ。
(きっと母がかなりサポートしてくれたに違いない!)

「おばあちゃん!見て!」評価点数表を見せると母が目で嬉しそうに笑う。
呼びかけると目を開け、首をかすかに振る。
まだまだ意識ははっきりしている。
でも、それが返って苦しそうに呼吸している母を見ると辛くなる。
人工呼吸器は、母の呼吸のリズムと合わなくて、しょっちゅうブザーを鳴らす。

その度に看護士さんを呼ぶ羽目になる。
胆を取り除く作業、機械の調整。
5分起きに入れ替わり立ち代わりされる看護士さんを見て、本当にこの仕事の大変さ、
人員不足を痛感した。

「おかん、今から勉強して看護士さんにでもなったら?大変だよね〜。
この様子を見たら、そう思うよ」
「え〜?今さら私がですか〜?」
「結構年とって勉強する人いるらしいよ〜」
こうして現場を見て始めて実感できるのだと思った。

朝、入れ替わった看護士さんが病室に入った。
「え〜昨夜、私が帰る時に見たポジションのままなんですが、ず〜と同じ状態ですか?」
笑いながら、酷い格好をした私たちを見て言われる。

「いえいえ、3交代ぐらいしましたよ。で、元に戻ったの..」

一人が母の手を握り側に座る。
一人が長椅子の3/2で横たわり、一人が重なるように斜めに寝ている。
それぞれが決して小さいとは言えない、人並み以上に大きいボディ。
とてもとても人様に見せれる姿ではない。

「あ〜おかんの側に3m以上近づかない予定だったのに〜不覚じゃ〜!」息子が騒ぐ。
母を交えて、私たちはとても有意義な時間を過ごせた気がした。

看護士さんから「もし、お呼びになられたい方がいらっしゃいましたら、急いで
ご連絡ください」上の血圧が40を切ってきたらしい。

昼から来る予定だった義妹や相棒を呼んだ。
10時過ぎ、みんなが揃った。
「他に呼びたい方はいらっしゃいませんか?」6名は顔を合わせ、これでいいよね。と頷いた。

暫くして、また私たちは病室を出さされた。様子を見に行くと、もう大丈夫だという。

私ひとりで側に行き、「おばあちゃん、ありがとうございます。中川家に嫁ぎ、嫁として
おばあちゃんの側にいれた事を感謝しています」声に出して言った。
すると、呼吸が段々静かになった。
「え〜〜???おばあちゃん、駄目よ〜〜!まだ逝ったら駄目よ〜!みんながいないんだから…」

私は、臨終の時に看取れなかった悔しさを祖母や義父の時に味わっていた。

急いで皆を呼んだ。
すると、一旦停まったかのように見えた呼吸が戻ってきた。
「あ〜〜良かった〜〜!」胸を撫でた。

みんなの見守る中、静かに母は逝った。7月27日午後10時37分。

側に集まってくださっていた4〜5名の看護士さんが一緒に涙してくださっていた。

「これから身体を拭かせて頂きますが、ご一緒にされますか?」素晴らしい提案をして
くださった。

祖母の時、生まれて始めて死者の人の身体を実家の母がきれいにする作業を手伝った事
があった。
その行為がどれだけ大切事だったか、実感したからだ。

男性陣は外に出てもらい、義妹と娘と私の3人で看護士さんの指導の元、母の身体を
拭かせて頂いた。
きれいに着替え、最後に病院で用意されていた化粧を使わせてもらい娘が死化粧をした。
母の口紅姿を見たのは始めてである。
「おばあちゃん、きれいよ〜」安らかな死に顔である。

霊安室に義妹夫婦を残し、急いで自宅に戻った。
家では、ウイーンからのお客様たちが生徒達にレッスンをされていた。

お世話役の方にだけ、母の状態をお知らせしてあった。

母は自分の性で迷惑をかける事を一番嫌う人だった。

息子の結婚式の時、大腿部骨折した時も「大丈夫だから」と痛みを知らせないように
私たちを結婚式の会場に送り出し、救急車で運ばれる時にも
「家族には式が終わるまで知らせないで!」と気遣う人だった。

お通夜は翌日にする事にし、予定通り、その夜のサロンコンサートをする事にした。

枕供と通夜、お葬儀予定をお寺さんにお願いしたが、どうやらお坊さんは夜遅くまで
帰られないという。

演奏者の方に、母の事をお話しした。(私たちがバタバタしていたので何となく
気がつかれていたらしい)
すると、イルゼさんとポール七子さんの方から、「じゃあ、今晩のコンサートは
お母様の追悼演奏会にしましょう。きちんと皆様に最初にお伝えした方がいいと
思います。その方が私たちの演奏も変わってきますので..」
私たちはこの突然の出来事の提案に感謝した。

本当は、せっかく来てくださっている方々には内緒にと思っていた。
母の遺言では、父と同様、自宅でこじんまりと葬儀をして欲しいと言われていたからだ。

母の身近な縁者の方々が次々と弔問に来られた。
結局、その方々にもコンサートに参加して頂く事になった。
一体、何人来られるか分からない状況でのコンサートだったが、40名あまり、
丁度計ったように、満席になった。
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冒頭に、七子さんから母が今日亡くなり、急遽追悼コンサートにしますと伝えられると
数名の友人たちがびっくりしたように振り返って私たちの顔を見た。

曲目は、母の為にと急遽変更してくださったものだった。
その中の一曲に、シューベルトのアルペジョーネがあった。
以前から好きな曲だった。

約400年前だというイルゼさんのヴィオラでの演奏、私の幼稚園の時に買ってもらった
ピアノをまるでベーゼンドルファーの音の様に(さすがにちょっと無理だったらしいのだが、
少しは雰囲気が出せたかな?と後でおっしゃっていた)引きこなしてくださった。

ウイーン国立音楽大学の先生、世界的な演奏者の音が、こんな我が家の小さな部屋で聞ける
事自体が夢の様である。素晴らしい演奏だった。

途中、小さな子供さんが泣き出し、慌てて部屋から出られた。
どうも感受性の強い子供さんだったという。
きっと母もこの場で聞いてくれているだろう母に語りかけた。

最後のリクエストに娘が「夏の日の思い出」を歌った。
さすがに、可哀想にきちんと歌えなかったようだ。

枕供は上げれなかったものの、この追悼コンサートが何よりの追悼になったのだと
確信できた。

もう一晩お泊まり頂く予定だったがホテルを取って頂き、用意した簡単な夕食を
演奏者と皆で食べた。
とてもとても有り難い言葉を私たちにイルゼさんから頂いた。

皆様、演奏もさることながら、気さくで優しい、素晴らしい方々だった。

こんなタイミングで追悼コンサートになるとは想像すらしていなかった。
この世に、こんな形で逝ける人がどれだけいることだろう?
完璧なまでの計らいに感動した。仏意そのままである。

その夜、私と娘で蝋燭の番をした。

さすがに疲れていたので、長時間用の蝋燭に換えて仮眠を取った。

次の日、朝一番に棺にいる母の顔を見た。
びっくりした。とても透き通った美しい顔。今まで見た事のないような、本当に美しい
顔だった。
娘もその顔を見て、同じように感動していた。

今度は私がメイク直しをした。
私たちは、今までのコンサート体勢からいきなり様変わり。
通夜、葬儀の準備に取りかかった。

和室の荷物を出し、掃除し、白い布で覆い、昨日までの状況とまるで別な部屋に変わって
いった。

義父の時は知り合いの花屋さんに頼み、祭壇を花で一杯にした。
今でこそ、このような葬儀が流行ってきたが、当時ではとても珍しい様だった。

この度は、当たり前のように、祭壇を花で飾る事を葬儀社の方の方から提案して頂いた。
菊は無しで、白い花と薄紫でまとめてくださいとだけお願いし、後は、全ておまかせします。
と言ったものの、飾られる花を見ながら、段々と顔が引き攣ってきた。
菊の花々、ひまわり、深紅のデルフィ、ピンクのカーネーション等々。
側で娘が「我慢するんよ」と言わんばかりに袖を引っ張っている。

その娘さえも、ついに、その袖を離した。
ご丁寧に、お詫びし、祭壇の花だけを入れ替えさせて頂く事にした。

そして、以前から母の葬儀の時にはと思い描いていたものとは随分違っていたが、被爆した
タンスの上に母の着物と帯を敷き、母の焼き物を展示した。
壁には母の書いていた般若心経の軸を飾った。

母は全てを用意していた。
死んだ時に着せて欲しいとシルクの肌襦袢や、自分の骨壺まで焼いていたのだ。

和室には、親族14〜15名しか入らない。
隣のダイニングや居間に他の方々には参列して頂いた。
普段正座しなれていない我々には、長時間での正座はまるで拷問の様である。
お通夜だというのに、何とも明るいものである。

お通夜には我々家族と友人が同席して酒盛りになった。
少し仮眠して降りてみると、どうも相棒の様子がおかしい。
何と、相棒が髭を剃っているではないか。

母のお棺の中に何を入れようかと話題になり、相棒が髭を捧げる事になり剃られたという。
私と義妹は母の為に作った洋服を洗濯して棺の中に入れる事にした。

父の時と同様、私たち家族は、お嫁さんも一緒に最後の夜を母の側でわいわいと
布団を持ち込んで共にした。

翌朝、幹行さんの姿を見てびっくりした。
相棒同様、幹行さんも髭を剃っていたのだ。
何という偶然だろう。幹行さんは唯一の正装である、坊さん時代の衣を羽織ってきた。

私は実家の母が用意をしてくれた着物を着る事にした。

昨夜、本当に珍しく雨が降ったお陰でいつもよりも涼しく快適に葬儀を終える事が出来た。
お通夜の時に懲りたので、座布団を丸めて正座用の補助座布団も作っていた。

お棺の中には、いつも母が読んでいた新聞や俳句の本、幹行さんが作ったトマトも一緒に
入れられた。

自宅での葬儀。大変な事も一杯あるけど、私たち家族の思いがその中に織り込む事が出来る。
わいわい、がやがや、沢山の親戚、友人、ご近所の人達の手を借りてやっと出来る。

火葬場にも沢山の人達が来てくださった。
足の悪いとなりのおばあさんも誘った。
私たちは殆ど知らなかった親戚の老夫婦も最後まで参加してくださった。
子供達も沢山来てくれた。 東京から友人が駆けつけてくれた。

まさか、こんなに沢山の人達に見送られるとは想像もしていなかったので、お弁当の数は
全く足りない状況になったけど、つくづく母の人徳を、深さを痛感した。

火葬場で親戚の高校生が追悼コンサートの時の様子を話してくれた。

彼女は、数年前から霊的にいろいろな事が見えるようになっていた。

「コンサートの時にね、おばさんが、空いている椅子に座って聞いていたのよ。
そこに、子供を連れた親子が座ったので、慌ててどいたの。その時に子供が
火がついたように泣き出したの。おばさんは何処に行ったのか探していたら、
上の方がキラリと光って上にス〜と逝かれたの..」
びっくりした。
確かに母が一緒に聞いているとは思ってはいたけども、本当にそうだったんだと感動した。

最後の最後まで、あっぱれ、素晴らしい数日だった。

葬儀のあり方、親戚のあり方、これからのあり方、一杯考えさせられた。
「何だかね、この数日で、我が家が田舎のおばあちゃんの家のような温かさを
感じたのよ」娘がつぶやいた。

私たちは、少し早いけど、8月15日に早めの法事と納骨式をする事にした。
丁度21日目に当たるが、母には49日までなくてもいいらしい。そんな納骨も
あるらしい。

今年が初盆になる。
これからは、法事は我が家で沢山の親戚の人を呼んで、田舎のようにしようね。
家族で話した。

素晴らしいお姑さんに出会えた事を心から感謝しています。

身体は疲れていても、心はとても清々しい思いがしています。
本当に長い間、ありがとうございました。

 PS。我が家の猫ちゃん、母の名前、法名『釋尼貴幸』 を頂いて「さっちゃん」
と名づけました。
が、しかし...今日、もしかしたら雄猫かも?と判明。どうするの?

PS2. 火葬場での事。
「どうして、頭の所が紫色に色がついているんですか?」
「お棺にいれられた洋服の染色とか、果物の色なんですよね」
「え〜?頭の所って...。あ!幹行さんの入れたトマトだ〜!」
「おばあちゃん、トマト嫌いなんだよね〜」

逝った義母へ、心からの感謝を込めて...。_b0076008_13513120.jpg


by necocafe | 2010-07-30 13:52 | 興味深い『ひと』


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